黒い、魔力。
 シャルロームの存在を喰い尽くし、戦いで散った数多の生命を糧に膨れ上がったそれは、噴水の様に迸り天高く舞い上がった。
 蒼い天蓋に、黒の領域が広がる。
 そこにあった筈の、命の名残。そこから吹き出した黒い魔力は、雲となって天空を覆う。
 見上げた空いっぱいに重く垂れ込めた黒雲は、やがてある一点を中心にゆっくりと渦を巻き始めた。
 その真下には、クヴァール島。
「これは‥‥」
 誰かが呟く。
 ――同じだ。エピドシスの上空にあった、あの黒い雲と。
 あの雲から‥‥あれが生まれた。巨人、ヨロウェルが。
 今度は、何が始まる? 何が生まれる――?

 しかし、いくら待っても‥‥何も起きなかった。
 ただ、黒い雲がゆっくりと渦を巻き、広がり続ける他は、何も。

 戦いは、終わった。
 海を覆い尽くし、要塞に押し寄せていたもの達は、いつの間にか姿を消していた。
 ブリーダー達の――人類の、勝利。
 しかし、これを勝利と呼べるのだろうか。手放しで喜んで、良いものだろうか。
 戦場を離れ、労いの言葉をかけられ、称賛の声を浴びても‥‥不安は消えない。
 斃してしまって、良かったのか。
 彼等の憎しみと悲しみ、そして痛みを‥‥増やしただけではないのか。
 更なる悪夢を呼び覚ましただけなのでは――?
 その思いは上空に垂れ込めた黒い雲の様に、ブリーダー達の心に重くのしかかっていた。



「‥‥シャルローム‥‥」
 クヴァールの空で、黒い羽根が一枚‥‥風に舞う。見上げた空は、その黒よりも更に濃い、闇の色をしていた。
 炎烏は、頭上を覆い尽くした闇に向かって手を伸ばす。
 だが、何も触れない。何も掴めない。握った拳を開いても、何も‥‥ない。
 ――あいつは、もう‥‥いない。
「本当に‥‥死んじまったのか?」
 ――いや、違う‥‥。
 エレメントは、死んだ後に何も残さない。例え姿形をヒトに似せようと、ヒトの様には‥‥なれない。
 だが、お前はここにいる。お前はこの雲を遺した。この、空を覆う雲の全てから、お前を感じる。
「お前は‥‥まだここにいる」
 ――もう一度、集めたら‥‥戻るのか?
 炎烏は再びその手を伸ばし、何かを掴み取ろうとする様に、強く拳を握る。
「無理‥‥だよな」
 拳を開いて確かめる事も、しない。
「‥‥本望、か?」
 炎烏は雲に語りかけた。そこにいる筈の‥‥シャルロームに。
 きっと彼女は、喜んでその身を投げ出したのだろう。愛する者の事だけを、一途に想い‥‥
「‥‥幸福、だったか?」
 ――当たり前じゃない。これ以上の幸福があると思うの?
 そんな声が、聞こえた気がした。
 ――クリム様を、頼んだわよ‥‥
「お前ならきっと、そう言うだろうな」
 炎烏は小さく肩を竦め‥‥「わかったよ」と呟いた。
「それがお前の望みなら、叶えてやる」
 だが――ファスターニャクリム。彼は一体、何を考えているのか。
 クリムの側近とも言うべき立場の炎烏にも、近頃のクリムの言動は奇異に思えた。
 普段は穏やかで仲間の面倒見も良いクリムが、このところ‥‥荒れている。
 元々、感情が昂った時には別人の様な顔を見せる事もあったが‥‥
「あの魔力を取り込んで、更に力を付けて‥‥それで、どうするつもりだ、クリム?」
 頭上を覆う魔力の雲は、仲間の命を犠牲にして生まれたものだ。
 普段の彼なら、そんな事を求めはしない。
「‥‥それほどまでに、奴等が憎い‥‥か?」
 自分には、よくわからない。
 憎しみや怒りや、絶望‥‥そんな熱い想いに身を焦がすほど、もう若くはない。それでも、彼等と共にいたのは‥‥
「まあ、それなりに居心地は良かった‥‥な」
 炎烏は海の方角から目を背け、島の中央に向き直った。

 ――オォォオーーーン‥‥

 狼の遠吠えが、細く長く‥‥悲しげに響く。
 それは、こうして暗雲が太陽を隠す以前から満足に陽の差す事がなかった、この島そのものの嘆きの声にも聞こえた。





 暗雲が空を覆い始めて、数日。
 最初はクヴァール島を中心とし、その対岸の地域を巻き込む程度だったその雲は、日を追うごとに次第にその大きさを増していった。
 その雲に頭上を覆われた土地では陽の光が遮られ、昼間でも夕暮れ時の様に薄暗く、視界が悪くなっていた。
 ――太陽は、ある。黒い雲の向こうに‥‥更に濃く黒い影となって。
 しかしそこから届く光には、生き物を育み、守り、安らぎを与える力はない。
 間もなく春に向かおうとしていた世界は、再び冬に呑み込まれた。光さえも届かない「暗黒の冬」に。

「既に世界各地にその影響が現れ始めています」
 カルディア王宮の一室、円卓の間。
 居並ぶ重鎮達の前で、調査に当たった研究者が報告書を読み上げた。
 その表情は硬く、険しい。
「クヴァール対岸では作物が枯死する現象が相次ぎ、このままでは食料の不足が懸念されます。その現象は暗雲の広がりと共に世界各地に拡大しつつあり‥‥」
 それは、単なる日照不足というだけではない。
 自然界全体のバランスが、徐々に崩れ始めていた。
「人々は不安や恐怖、更には絶望を訴え、また頭痛や睡眠障害など、体の不調を訴える者も相次いでいます」
 中には生きる意欲を失って食事さえ摂らなくなる者や、反対に自棄になって暴れる者もいる。
 人ばかりではなく、エレメントや動物達にも同様の影響は現れていた。
 外部の自然がバランスを失った結果、生き物の内部にある自然も統合を失い、迷走しているのだろう。
「その原因は、単に太陽が隠れたという、その事ばかりではありません」
 報告に当たった研究者は、一段と表情を引き締め、低い声で、しかしはっきりと告げる。
「大気に満ちる魔力のバランスが崩れています。恐らく、あの黒い雲のせいで」
 あの雲は、以前エピドシスの上空に渦巻いていたそれと同種のものだろう。
 ただし、桁違いに規模が大きく、そして、それが内包する魔力は計り知れぬほどに強い。
「それが、世界全体の魔力のバランスを崩しているのです。太陽が隠れた事など、副次的な作用に過ぎません」
 研究者は一旦言葉を切り、居並ぶ重鎮達を見渡した。
 どの顔にも‥‥緊迫感はない。焦燥も、衝撃も、そして決意も、彼等の顔には見られなかった。
 彼等は事の重大さを理解していない。
 ほんの数人――末席を占めた者達を除いては。
「‥‥それで、具体的には何が起きるのかね?」
 老大臣のひとりが口を開いた。
「こう毎日、昼でも夜の様に暗く寒い日が続けば‥‥気分が滅入るのは当然じゃろう。それ以外に何か、重大な事件は起きているのかね?」
 具体的に何か‥‥重大な事件が起きなければ、いや、我が身に降り掛からない限り、彼等の頭には「重大事である」とは理解されないらしい。
「まだ、何も。ですが‥‥予測は出来ます」
 研究者は小さく溜息をつくと、続けた。
「このままあの雲が上空を覆い続ければ、近いうちに‥‥エレメント達の体に影響が出始めるでしょう。彼等の体内を流れる魔力のバランスが今以上に崩れれば、彼等はその存在を保てません。つまり‥‥全てが死んでしまうという事です」
 そこまでは至らなくても、コンバートが出来なくなったり‥‥暴走を始める事も考えられる。
「実際、研究所では魔石からエレメントを生み出す事が出来なくなっています。このままでは、自然発生も、繁殖も不可能‥‥」
「しかし、エレメントなどというものは‥‥正直、面倒なものじゃ」
 老大臣が白い顎髭を撫でながら言った。
「世話に手がかかるし、下手をすれば暴走‥‥コンバートで魔法や色々な技が使える様になるのは便利じゃが、それは‥‥魔石で代用出来る様にならんかね? 誰か、その研究をしとる者はおらんのか?」
「お言葉ですが」
 研究者は怒鳴りたくなる思いをぐっと堪え、答えた。
「魔力のバランスが崩れるという事は、魔石も同様にそのバランスを崩し、不安定になり‥‥使えなくなるという事です」
 魔石を使った魔道具はいずれ、全てが動かなくなる。
 そして、いずれは‥‥人や動物もその存在を保てなくなり、消える。
 いや、その前に食料の不足によって死滅するかもしれない。
「‥‥た、大変な事ではないか!」
「何とかするのじゃ、今すぐに!」
「急げ!」
 ――ダンッ!!
 俄に喧噪に包まれた室内に、無礼な音が響く。
「‥‥オタオタしてんじゃねえよ、みっともねえ」
 それまで、じっと黙って聞いていた国務補佐担当大臣フェイニーズ・ダグラスが口を開いた。
 机を踏みつけた足を戻すと、のっそりと立ち上がる。
「‥‥で、原因はわかってんのか?」
「はい。恐らく‥‥あの島に」
 問われて、研究者は頷く。
 あの黒雲はクヴァール島を中心に渦巻いている。そして‥‥あの雲を発生させたシャルロームが、今際の際に言っていたという、言葉。
 ――あの方の、ために。
「ファスターニャクリム‥‥か」
「‥‥はい」
 目的は、わからない。
 その魔力を自らに取り込んで、更に強大な存在になろうとしているのか‥‥それとも、このまま暗雲で世界を覆い尽くし、じわじわと人類を滅ぼすつもりなのか。
「しかし、あの雲は‥‥エレメントにも影響を及ぼすのだろう?」
 ギルド長オールヴィル・トランヴァースも立ち上がる。
「人類より先に、彼等が死滅してしまう‥‥それを、わかっているのか?」
「‥‥ぶちキレちまった、かね‥‥」
 暴走、してしまったのか。
 だとしたら、何故‥‥何が、そうさせた?
 シャルロームの死、か?
 ――いや、それも何か‥‥違う気がする。
「とにかく、行ってみるしかねえな」
 暴走か否か、何が目的なのか‥‥止める事は、出来ないのか。
「待ちたまえ、ダグラス大臣」
 老大臣のひとりが言った。
「君は確か、クヴァールへの派兵に関して強固に反対の意を唱えていた筈だが?」
「誰が軍隊送るつったよ?」
 フェイニーズは鼻を鳴らした。
「てめぇら古狸はここでのんびり茶でもすすってろ‥‥行くぜ」
 傍らのオールヴィル、そして管理局長ローラ・イングラムを促す。そして、報告を終えた研究者も。
「待て、何を勝手な‥‥!」
「るっせーな‥‥」
 フェイニーズは両のポケットに手を突っ込んだまま、半身を老大臣達に向ける。
「結果を出しゃ文句はねえだろ! 黙って大福帳でも眺めてやがれ!」
 円卓がひっくり返る派手な音を残し、四人は部屋を後にした。


「‥‥悪い、巻き込んじまった」
 執務室に戻ったフェイニーズは、そう呟くとソファに沈み込んだ。
「お前が言わなきゃ、俺が言ってた」
 その前に立ったまま、オールヴィルが口の端を歪める。
「それに、机を蹴り倒したのは共犯だ。‥‥覚悟は、出来てる」
 ちらりと視線を向けられ、ローラもまた‥‥いつもの様に無表情ではあるが、小さく頷く。
 大臣、管理局長、そしてギルド長。
 これだけ揃えば、上の命令など待たずとも独自に動ける。いや、命令など待っていたら、一体いつになるか‥‥そして、どんな事になるか。
「とにかく、動かねえ事には何も始まらん。クヴァールに、ブリーダー達を送る」
 フェイニーズが言った。
「勿論、武装はさせるが‥‥戦うかどうかは、現場の判断に任せる。とにかく、クリムまでの道を作りたい」
 その上で、どうするか‥‥それはまだ、わからない。
 倒すしか、ないかもしれない。或いは、説得の余地があるかも‥‥
「どう転ぶかは、現場の状況次第‥‥それに‥‥ブリーダー達の対応次第、という事か」
 オールヴィルが念を押す様に言った。
「だが、俺はまだ、ここから動く事は出来ん。現場の指揮はヴィスターに任せる事になると思うが‥‥」
「ああ。俺も‥‥まだ、動けねえ。奴に会う為の材料が、揃わないんで‥‥な」
 だが、必ず行く。彼等を納得させるだけの、材料を揃えて‥‥
 ――もし、何も出来なければ‥‥その時は、その時だ。
「お前も、暫くは今まで以上に風当たりが強くなるだろうが‥‥」
 フェイニーズはちらりとローラを見る。
「ま、我慢してくれや」
 必ず、結果を出す。
 三人は研究者を交えて今後の予定を軽く打ち合わせると、それぞれの現場に戻って行った。



 ――あの島でも、星が見えなかった。
 そして今、見上げた空にも‥‥星は、見えない。
 ここは、クヴァール対岸で星が最も美しく降る場所。そう思って、選んだ。それなのに――
 ヴィスター・シアレントは暗闇の中にじっと目を凝らす。
 星明かりもない闇の中にぼんやりと浮かぶ、かつて自らが愛用していた大剣。彼の‥‥墓標。
 それをただ、じっと見つめる。
 風の音も、潮騒も‥‥その耳には届かない。聞こえるのはただ、彼の声――
「いっしょに、いこう」
 やがて、小さく呟いた。
 ――いっしょ、に。
 空に星を取り戻す為に。決着を‥‥付ける為に。

 この雲が晴れれば、あの島にも星が降る様になるだろうか。
 あの島で、星を見ながら語らう事が出来るだろうか――



 ――もう一度、あの島へ。
「‥‥行って来るね、お父さん」
 ジル・ソーヤは弟のリアンと共に、父母の墓前に花を手向ける。
 クヴァール島への、再度の上陸。それを知って、ジルはすぐさま名簿に自らの名を書き入れた。
 何が出来るかは、わからない。
 けれど、行かなくては。
「必ず、帰るから。皆と一緒に、帰って来るから‥‥ね」
 それは、そこに眠る者達と、それを守り、帰りを待つリアンに向けた言葉だった。





 その頃、クヴァール島。
「大変なのです、一大事なのです!」
 先日、ブリーダー達が上陸を果たしたあの海岸が、ふわふわのもこもこで埋め尽くされていた。
 その中に、一頭‥‥いや、ひとり。頭に羊の角を生やし、執事の格好をした少年が混じっている‥‥人型エレメントのひとり、シープシーフだ。
「僕にこの海岸を守れなんて‥‥ブリーダーの人達と戦えなんて。無理なのです。無茶なのです!」
 シープシーフは、元々戦闘向きではない‥‥悪戯をするのがせいぜいだ。しかも悪意のない、無邪気な悪戯。
「なのに、クリム様はどうして僕にやれと言うですか。困るのです。僕は‥‥」
 ――僕は。
 皆と遊びたい、だけ。
「遊んでもらって‥‥楽しかったのです。僕は楽しい事が好きなのです!」
 だが、クリムは‥‥彼等を殺せと言う。
 殺して、殺して‥‥あの、空に渦巻く魔力を、死に行く者達の魔力と怨念で、もっと。もっと、もっと‥‥満たせと。
「クリム様は、変なのです。怖いのです。近寄れないのです。前は‥‥僕の頭、撫でてくれたのです。もふもふしてくれたのです」
 けれど、今は。
「‥‥戻って‥‥ほしいのです」
 もこもこ、もこもこ。海岸に、羊が増える。
 その背後には、シャルロームが作り出したアンデッドや、この島に元から棲みついているモンスター達。
 アンデッドには元より理性はないが、モンスター達も上空に渦巻く黒い魔力に影響を受けたのか、半ば理性が吹き飛んでいる様に見える。
 羊の大群は、そんな「仲間達」から自身を守る為の防壁。
「‥‥僕は、怖いのです‥‥」
 シープシーフの姿は元の羊に戻り‥‥羊の大群に紛れて見分けが付かなくなってしまった。


 見上げた黒い雲から、何かが降って来る。
 雨‥‥では、ない。
 何か、細く――白いもの。
 ――蛇‥‥?
 雲の間から幾筋もの軌跡を描いて降り注ぐそれは、やがて地面に辿り着き‥‥姿を変えた。
 むくりと起き上がり、膨れ上がり――ヒトガタになる。
 全身が真っ白な、女性。
 しかし、その顔には目鼻も、口もない。
 なのに――それは叫んだ。
 長く引きずる様な、悲しげな声で――いつまでも、いつまでも。



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